大スクープ!? ルイ・ヴィトンを初めて買った日本人が判明

調べてみると中野健明は、岩倉具視使節団の一員として欧米に派遣(1871年から1873年)された。帰国後、すぐに外務一等書記官としてフランス公使館に在勤。1878年7月に帰国しているから三浦氏の調査と一致する。おそらく帰国用にルイ・ヴィトンで長旅用の大型トランクを買ったのかもしれない。前出した展覧会のカタログには1885年に製作された大型トランク(写真)があったので、読者におかれてはそれを参考に想像を膨らませていただきたい。

鮫島尚信や中野健明ら当時の外交官の任務は、開国時に欧米列強から無理強いされた不平等条約の改正であった。しかし外交に不慣れなこともあって失敗の連続。そこで外国人秘書を雇い、猛勉強の末に外交実務を身につけていく。

一方彼らは、高級クラブに出入りし、西欧上流社会のマナーを磨く必要もあった。仕立て屋は一流どころを選び、移動に使う馬車は最上等品。一等地に堂々とした門構えをもつ貴族の館を、あえて公使館にした。そこで各国の大使や社交界の花形を招き、日本の近代化をアピールして、条約改正を少しでも有利に導く必要があったからだ。

特命全権公使だった鮫島らの月給は400円(約1,600万円)。 破格の高給だが、それでも借金が出来たという。

これら贅沢な暮らしの数々を私欲で行えばどこぞの元知事に堕ちるが、常に民の益を考えた公の心が発動した結果であったところに彼らの気高さが見える。

西欧の一流を見て来たふたりは、その後どんな未来が待っていたのだろう。鮫島尚信は、後進のために日本初の外交手引書『外国交法案内』を著すが、1880年わずか35歳の若さで客死(於パリ)。いっぽう中野健明はさまざまな官職を経て、1890年長崎県知事に就任、3年後に神奈川県知事に転任し、1898年に現役のまま他界した。

ふたりの念願だった不平等条約改正の完全な達成は、条約締結後約50年を経た1911年まで待たねばならなかったのである。

 

参考:

犬塚孝明著『ニッポン青春外交官』NHKブックス/
『Universal Symbol of the Brand ルイ・ヴィトン 時空を超える意匠の旅』展カタログ(読売新聞大阪本社)

 

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