森村泰昌は自画像の歴史のアンカー役となりうるか。

これまで新作ごとに、まるで思春期のように私的な通過儀礼を重ねながら自らを熟成してきた森村氏にとって、この展覧会は「原点に回帰する」ことでもある。

「手探りで美術史の自画像をつくりながら考えました。

たとえばグレン・グールドは何をしたかったのか。ただピアノが上手になることが音楽家の目標ではない。たった1つの音が筆舌に尽くしがたい感動を生んだ瞬間が芸術の起源なら、楽譜をマスターすることはそれを再現するための手続きに過ぎません。グールドがやったのはそれを超えること。訣別というより超越です。

楽譜=美術史と考えれば、試行錯誤の美術史を知ることは、それ自体が目的ではなく、どうしたらその先へいけるのか、会得するための手続きです。その手続きを踏まえての原点回帰だと思っています」。

森村泰昌《自画像の美術史(レオナルドの顔が語ること)》2016年 作家蔵

もうひとつ忘れてならないのは、森村さんの創作活動の原点には常に「歓び」があるということだ。世代を超えてコアなファンの心をとらえているのは、その共感でもある。

「基本中の基本は“一人遊び”好きなんですね。ずっと好きだったし、今も“好き”でやってます。美術が社会的な意義を帯びていく、その根底には“好き”の衝動があるものかもしれません」と森村さんは率直に語ってくれた。

「でもそれは自己表現のためにやってきたわけじゃないんです。このシリーズをやってきてよかったと思うのは、自画像の歴史のアンカー役を演じることができたかもしれないということ。

中世は神様中心の時代でした。それが人間中心の時代へシフトし、近代哲学の発達を経て、“私”というものがかけがえのない唯一の存在であることは芸術の大前提になりました。

もはや臓器や顔、皮膚、性別すら、好きなように取り替えのきく未来が近づいてきた現代、近代的自我の有り様はそろそろ黄昏時にさしかかっているのではないか。最後の自画像作家として、有終の美を飾るべく、きっちり“私”に拘っていきます」。

2014年、アーティスティックディレクターを務めた「横浜トリエンナーレ」でも、森村さんは目新しさを追うことなく、終わりゆくもの、忘れ去られたもの、黙して語られないものをすくいあげ、寄り添う形をとった。

やわらかな歴史観に培われたその視線の先は、表現者である自身を超えて、遥か遠くにある。

同時代を共有する私たちもまた、他者との差異や距離を意識しながら、時代の波間に溶け込む「わたし」とはなにか?をたえず問いかけながら生きている。

 

Profile:

森村泰昌

1951年大阪市生まれ。京都市立芸術大学修了。1988年ヴェニスビエンナーレ選出。近年の個展に「私の中のフリーダ」(原美術館2001年)「なにものかへのレクイエム」(東京都写真美術館他2010年)。2014年、横浜トリエンナーレにてアーティスティックディレクターを務める。

 

Information:

森村泰昌:自画像の美術史
「私」と「わたし」が出会うとき

2016年4月5日(火)~6月19日(日)
国立国際美術館
〒530-0005 大阪市北区中之島4-2-55
http://www.nmao.go.jp/