音楽とは因果で、酔狂なもの。アコーデイオンとコントラバスのmama!milk

2009年には「ロートレック展」(Bunkamuraザ・ミュージアム)の展示室にて、mama!milkと阿部海太郎のコンサートを企画協力。画家がパリの夜を描いた華やかな享楽の時代に連れ去られるような音のひろがりに、終演後、アーティストの三田村光土里が「人生の最後に聴きたい音楽だと思う」と呟いたことを覚えている。

mama!milkの音楽にはざわついた心持ちでは触れられない。慌ただしさから解放されたとき、床につく前などにじっくりと聴く。彼らが音楽の軌跡を深々と残してきた、静かな情熱がすべての曲想から伝わってくる。

次のアルバム「parade」は全編を通して、グレイがかった深みのある色あいを帯びた、ほろ苦い熟成を感じさせた。同時発売した「Quietude」の、海辺の廃墟で2人だけでおこなったという録音も、麻布のような肌触りがすがすがしい。

恵比寿NADiffに移転したギャラリー・カフェTRAUMARISの第三章が始まった。

2011年3月5日(土)。写真家・湯沢英治の個展会期中、動物の体内の小さな骨に息づく歪んだ造形美にフォーカスした写真のスライドショウを背におこなわれた「The Night in BAROCCO」。

暗闇のなか、コントラバスにつけたLEDの点光源だけをたよりに演奏した緊密な時間は、自然の深淵に歴然と存在する“夜の光”をくっきりと、ソリッドに浮彫りにした。

翌日からはじまったアルバムの公開録音が終わり、帰京しようとしていた品川駅で二人はあの日を迎えた。

後に発表された新作「Nude」にこんな“生の”文章を寄せている。

震災前夜まで録音していた「Nude」の音楽は、その5日前におこなわれた「The Night in BAROCCO」の演奏から、1つの緩やかな弧を描いて、つながっているという。

写真家・湯沢英治の、さまざまな動物の骨が彫刻のように映し出される映像「BAROCCO」と、mama!milkの端正な音楽がねっとりとからみあった、あの夜。闇のなかで仄白い骨の光だけを頼りに立ち上がる、剥きだしの音楽。

情緒のかけらまで削ぎおとし、鋭さを増した感覚は、なれ親しんだ楽曲のありのままの原初的な姿を露にしていく。

(演奏後の、生駒祐子の呟き。)
「色々あったけど、ここでは裸のままの私たちでいいと思った」

迎える私たちも容赦なく原点に引き戻された。

それまでは安全なところに身を置き、ただ陶然としていたとすれば、あれはだれもきっと逃げも隠れもできない、裸の夜だったのだ。

せりあがる言いしれない不穏な揺らぎ。思いのたけを込めた、詩(うた)にならない詩。涙をふき、胸をはり、また毅然と歩きだす誇らしい足どり。

「Nude」の音楽は、いま私たちが、何を失い、何を求め、取り戻そうとしているのか、明確な答えを差し出してはくれないけれど、凛とした潔い「一歩」を示してくれた。

これは、ひとひらずつ剥がされていく音楽の告白。
生きている音楽の打ち明け話。

震災後、こんなときこそ音楽やダンスにふれたいのに、ライヴやイベントの中止や延期が相次いだ。それでも身体に帯電した負のエネルギーをどこかで放電することが必要で、一晩に3本の会場をはしごした夜もあった。(シンディ・ローパー→ヲノサトル→大友良英)

物事の見え方も変わってしまうほどの烈しい時期だったが、mama!milkにとってもBAROCCOの夜、レコーディング、震災を経て、これまでにない“揺らぎ”があり、それが「Nude」の音楽に結実した。

彼らが常に自らの「芯」を意識して創作してきた心意気に感銘し、その変化に伴走できたことを心底誇りに思っている。