デザインの味方である僕の「デザインの見方」!?

アートのシステムの面白いのは、正統性や伝統に重きを置く一方で、権威や既成概念に逆らう見立てを積極的に吸収する貪欲さをそのシステム自体がもっていることだ。たとえば、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」。トマソンとは1981-82年巨人に在籍した元メジャーリーガー、ゲーリー・トマソンのこと。赤瀬川は三振の山を重ねてファンの期待を裏切ったトマソンを、街角にひそむ無用の人工物に見立て、「超芸術」と名づけ、哀愁とユーモアの入り混じる視点から街の建物などに付随する無用物を探し出す行為そのものをアートにした。

デュシャンの便器をアートにしたのは、科学者でも政治家でも裁判官でもない。アートであるか/アートでないかを決めるのは、アートのシステム自体である。科学者はアートを定義できないし、政治家は権力でこいつもアートだとゴリ押しできないし、裁判官はただ合法か違法かを判断するだけである。

私の子どもが描いた絵は天才的だから美術館に収蔵してくれと母親がいくら訴えても、アートの世界である程度の影響力のあるアーティストやキュレーターや美術評論家が、その子の絵はアートだと認めない限り、もしくは、その子が将来アーティストとして大きな成功を収めない限りは、美術館に半永久的に収蔵されることはなく、それはある人物の成長過程の記録にとどまることになる。

デザインの議論をしていると、デザインとアートの違いをよくいろんな人がさまざまに語っているが、アートをこうした社会システムとして捉えると、その答えは意外とはっきり見えてくる。

アートの社会システムは、アーティスト、キュレーター、美術評論家、美術ジャーナリスト、美術史家、ギャラリスト、コレクターといったプレイヤーと、それらの人たちが活動の場としている美術家団体、美術大学、美術館、ギャラリー、美術系メディアなどの組織で構成されている。

これらプレイヤーや組織はひとまとまりで動いているわけでない。現代美術、メディアアート、美術工芸、日本画といったジャンルがそれぞれサブシステムを構成していてアートとして成り立つ作品の再生産を続けており、さらにダンスや演劇や音楽や映画といったジャンルにもアートのプレイヤーがいて、アートとして評価すべきものをより分けて、アートの文脈の中へ吸収しつづけている。

プレイヤーと組織たちは、絶え間なく展示をしたり展示を見たり、コンペを開催したり新人に賞を与えたり、批評を書いたり議論をして、アートを生成しつづけ、アートの価値を維持しつづける。アートのシステムのプレイヤーは、その影響力を保つために活動をつづけないといけない。作品を作らなくなったアーティスト、批評を書かない批評家、展示を見に行かないジャーナリストは次第にアートの審判者としての権利を失ってしまう。

こうしたアートのシステムのプレイヤーたちは、アートとデザインの違いはほぼ眼中にない。もし彼らがデザインを話題にするときは、それがはたしてアートとして成り立つかという論点で語ることになる。倉俣史朗の椅子はアートの文脈で語るべきか否か……。すべての人に開かれたアートとか、すべての人が芸術家といっても、そうした試み自体が、何がアートとして成立するかという議論の延長線上のものなのである。

その点、デザインはアートと違って基本的になんでもありである。高さ3メートルの錆びた鉄の壁は、何らかの目的のために誰かがデザインしたもので、それがデザインであることは議論の余地がない。

デザインには、それが良いデザインか否かを語る組織はあっても、デザインであるか/デザインでないかを審判するシステムは存在しない。なぜなら何でもデザインだからだ。量産技術や情報伝達技術が世界を覆い尽くしたこの世界において、デザインは私たちの生活の隅々にまで有形・無形に遍在している。人が何かの狙いや目的をもって作ったものはみなデザインと言ってよい。

デザイナーという肩書きを名乗っていなくても、工場の設計者が製品をデザインしているケースは多々ある。独学でイラレやフォトショを覚えて広告チラシをデザインしている人もたくさんいる。中学校の文化祭の開催を伝えるポスターをバウハウスとかタイポグラフィとか言葉を聞いたことのない中学生がデザインしたからと「これはデザインじゃない」などと言うことができないのだ。

この道路の工事現場にたまたま設置された鉄の壁は、歴史に残るデザインではないにしても、それはデザインである。もしそれを評価するなら、それがデザインとして成り立っているか否かの議論でなく、それが良いデザイン──つまりグッドデザインか否かの議論となる。狙いどおり機能しているか、安全性は担保されているか、周囲の環境に調和しているか。時代をリードする革新性はあるか。

グッドデザインという言葉は成り立っても、グッドアートという言葉は使われることがない。アートを評価する基準は、人々の暮らしや社会に対してグッドかバッドかを問うものではなく、それがアートとして成り立つか否かなのである。

しかし、なんでもデザインと言ってしまうと、デザインの価値が激減してしまう。デザインには、デザインならではの存在意義があるはずだと、デザインとは何かを思索し議論して世に広めたいと思っている人間は多くいる。実は僕もその一人だ。

そうした人たちはいま「デザインの力」とか「デザイン思考」といって、デザインの価値を成果物としてではなく、プロセスとして語ることが多い。結果より過程を重視するので、機能と調和した美しいフォルムをもった製品よりも、まだ大きな成果をもたらしたわけではないが、社会課題を解決する試みとしてそのプロセスが美しく設計されているプロジェクトが評価されることになる。2018年のグッドデザイン大賞は「おてらおやつクラブ」という奈良のお寺が始めた、お供えのお菓子や食べ物を貧困家庭に送るシステムが選ばれた。まさに社会課題を解決する美しいプロセスの設計への評価だと言ってよい。

10月21日にグランドハイアット東京で行われた2018年度グッドデザイン大賞選出会。「おてらおやつクラブ」が大賞に選出された。/Photo:Keiichiro Fujisaki

デザイン思考とは一言でいえばデザイナーのように考えることである。「作りながら考える」「使い手の心を理解する」といったプロのデザイナーならではの思考プロセスに価値があると考えた人たちが、それをイノベーティブな創造を渇望するデザイナー以外の人たちに広めたのがデザイン思考である。

さて、Byronでの「デザインのミカタ」と題した連載はこれでおしまいである。よく訊かれる「デザインとアートはどこが違うの」って質問に答えようと思って書き始めたが、どこまで答えられたものか。

アートは自由な自己表現で、デザインには依頼主がいてその要望に従う必要があるってわけでもない。デザインは問題解決でアートは問題提起とはっきり分かれているわけでもない。

アートは、アートとは何かの定義をくり返すことで自らの価値と意味を再生産しつづける再帰的なシステムそのものであるのに対して、デザインは、人が何かの目的をもって何かをつくる行為そのものであって、その行為にさまざまなかたちで内在する創造性が発現するプロセスを探求して、産業システムのみならず社会のあらゆるシステムに応用すれば、人の営みを変える大きな価値をもたらすことができる。そう信じているのがデザインの味方である僕の「デザインの見方」である。

Photo:Keiichiro Fujisaki