バレンシアガの創作は同時代に活躍したディオールやシャネルとも相互に影響した

美術館を訪れる前に「エルカノ」でランチをとったのだが、そこで働いているサービス係の女性の着ている黒のユニフォームが、何と、バレンシアガのデザインによるものだと知った。そのときバスクの人たちが郷土愛やアイデンティティをどれほど大切にしているのかを直に触れた気がした。

バレンシアガのデザインによるレストラン「エルカノ」のユニフォーム。全体のシルエットはフェミニンだが、ボトムはフレアーシルエットでキュロットになっている。上下つながっているコンビネゾン型で、キュロットなので動き易いデザインだ。袖の部分がシースルーで、控えめなセクシーさが出ている。/Photo:Ayako Goto

レストランと美術館は目と鼻の先に位置し、「エルカノ」の向かいにある階段かエスカレーターで昇っていくとバレンシアガ美術館にたどり着く。

来月の1月27日まで開催している今回の展覧会は、バレンシアガの初期の作品からパリのメゾンを閉める1968年までの代表的な作品をていねいに見せていて、見る側からすると心ゆくまで堪能できる。今、「代表的な作品」と書いたが、バレンシアガの場合は、一点一点が完成された見応えのあるものなので、どれをとっても代表作と呼んでいいかもしれない。

張りのあるガザールで仕立てたローブ・ドゥ・マリエ。シンプリシティを極めた美しいフォルムで完璧そのもの。ガザールはアブラハム社が開発した素材で、バレンシアガが好んで使用した当時の新素材。1967年。/Photo:Ayako Goto

パリのオートクチュールが全盛を極めたのは1950年代だが、当時のクチュール界を二分したのがバレンシアガとクリスチャン・ディオールであった。同時に2人は影響しあっていたということも今回の展示会を通してよく理解できた。

例えば、ディオールがデビューした1947年に発表したニュールックはセンセーショナルな話題を呼び、第二次大戦直後のモードをリードしたことはあまりにも有名だが、この時期、バレンシアガの服にもニュールックの影響が見られた。しかしディテールにバレンシアガならではの美的価値観がプラスされているのだ。会場には1947年当時の作品やフランスのモード誌「ロフィシェル」に載ったデッサンが展示されていて、ディオールから影響を受けていたことがよく分かる。

またディオールもバレンシアガから影響を受けた。それはバレンシアガの一世を風靡した「サックドレス」全盛の頃に、ディオールはウエストを解放した「スピンドルライン(オフウエストの紡錘形)」の服を発表している(1957年)。

バレンシアガは女性の首筋の美しさを強調したクチュリエでもあった。広くカットしたネックラインや、首から肩の方に離れた位置に襟をつけることによって、セクシーに首筋を表現したのである。特に首から離れた後ろ姿の襟を見ると日本の着物の着つけを感じさせる。美術館の1階のヴィデオルームで見たビデオでは、その特徴について「日本の着物からインスピレーションを得たもの」と解説していた。

同時代に活躍したクチュリエールにココ・シャネルがいる。彼女は他のクチュリエを決して褒めなかったけれど、唯一認めていたのがバレンシアガであった。「デザインから裁断、仮縫い、本縫いまで全てひとりでできるのは、バレンシアガただひとりだけよ」と。

2人の作品は出来上がった作品は全く違うが、ゆとりのある動きやすい服を作ったという点においては、バレンシアガもシャネルも身体の線から服を解放することを目指していた。バレンシアガはオフウエストの服を考案することによって(チュニックやサックドレスで)、自分の目標を実現した。バレンシアガのスーツは、緩やかなカーブを描き、肩幅もゆとりをとってあり、着易く機能性を考慮してある。

1950年代に打ち出したシャネルスーツも同様に自由で着易いものであり、2人の作品は「機能性」と「気品」という点で共通する。

バレンシアガはウールのしっかりした素材を、おしゃれなドレスに用いた最初のデザイナーでもあった(その前といえば、おしゃれ着はソフトな素材が使われるのが常識だった)。特に黒いウールの布地を好んで使った。今回の展覧会でも、昨年、パリのブールデル美術館で開催された「バレンシアガ、黒の作品展」でも、素晴らしいカットとフォルムの黒い服が多かったが、とりわけウール製が数多く展示されていた。

1968年春夏コレクションを最後に、「私はプレタポルテに乗り出すにはクチュールを知りすぎている」と言って、パリのメゾンを閉店する。(この頃どのクチュリエも新たにプレタポルテに乗り出すが、バレンシアガはプレタポルテには進出せず、メゾンを閉めるというかたちを取った。ココ・シャネルもまた生涯にわたってオートクチュールだけを手がけた。)同年、エールフランスの依頼でオテス(スチュワーデス)の制服をデザインし、美術館の展示もここで締めくくられている。

パリのメゾンを閉めた1968年にエールフランスのオテス(スチュアーデス)の制服をデザインした。フランスの航空会社の制服をスペイン人が担当。これは国籍に関係なく才能のあるアーティストを受け入れるフランスの伝統と言える。/Photo:Ayako Goto

1971年、シャネルの葬儀に出席。バレンシアガが公の場に出席したのはこれが最後となったそうだ(ちなみに2人の年齢差は12歳で、シャネルが年上)。翌1972年、クリストバル・バレンシアガはスペインで亡くなる。

Photo:Ayako Goto