現代美術の巨匠ケントリッジの斬新な舞台に考えさせられた新国立劇場の『魔笛』

この劇場の「魔笛」の演出は、長らく(1998年、2000年、2006年、2009年、2013年、2016年)ミヒャエル・ハンぺによるものだった。なんと開場翌年の1998年の初公演では、大野和士が指揮している。ハンぺの演出は劇場の装置をフル回転させたきわめてわかりやすい演出だったが、さすがに20年を経て新制作の要望が多かったようだ。

今回の新国立劇場「魔笛」の演出・舞台を担当したウィリアム・ケントリッジ/撮影:Marc Shoul

今回の公演の主役は、間違いなくウィリアム・ケントリッジによる舞台であろう。序曲が始まる前から早くも緞帳にはエッシャーの騙し絵風のドローイングが投影されているが、ビデオ・プロジェクションによるドローイングやアニメや影絵が2Dあるいは3Dの奥行を伴って、現実と混然一体になって表現される。その目新しさに、演奏そっちのけで見入ってしまった。

いつも思うことだが、オペラの舞台では、ハイテク時代らしくもっとビデオ・プロジェクションの出番があってもいいのではないだろうか。雇用問題につながるので舞台製作スタッフの反対でもあるのか。それともコストの問題か。

しかし、今回のケントリッジによるビデオ・プロジェクションは一筋縄ではいかない。頻出するプロビデンスの目(モーツァルトや台本を書いたシカネーダーが入会していたフリーメイソンの象徴)は分からないでもないが、3人の侍女がいじっている撮影装置は何の意味があるの? なぜ投影される大蛇は人間の手であることが分かるようにしているのか? 縄で宙吊りにされたサイが撃ち落とされるのはどういう意味? メトロノームは何の隠喩なのか? 等々。

幕間にプログラムの演出家ノートを熟読する。恐ろしく難解。なにやらそれぞれに緻密な意味づけがなされている。例えば「今回登場する僧侶は、想像上の古代エジプトに生きる抽象化された僧侶でも、具体的特徴を持つ僧侶でも、18世紀のフリーメイソン会員でもない。『王立地理協会』という男性だけの学習・研究の機会を持つ会員制組織のメンバーだ」。

なるほど、夜の女王や3人の侍女はこの協会に入会できないで怒っている過激な男女平等権利主張者というわけだ。あるいは「ザラストロはパミーナの肩に手を置く。彼女を元気づけ、同時にタミーノから引き離すために。(中略)1秒でも長く置いたら、もしくはパミーノが少し肩をこわばらせたら、彼の手は激励者の手から捕食者の手へと変わってしまう」。

なるほど、慈愛とセクハラの境界線、その1秒が問題なのか(笑)。正直もう一回、見たいと思っているし、ケントリッジに是非インタビューしたい。

ケントリッジはユダヤ系白人弁護士夫妻の息子としてアパルトヘイト制度下の南アフリカ・ヨハネスブルクに1955年生まれる。祖父母はユダヤ人迫害で帝政ロシアを追われて南アにやって来たという複雑なルーツを持っている。この異常な人種差別の国で暮らしたことが、彼の屈折した発想につながっているのだろう。

ケントリッジのオペラ演出には、モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」、ベルクの「ヴォツェック」「ルル」、ショスタコーヴィチの「鼻」があるという。バロックオペラの「ウリッセの帰還」を別にすると、人間の暗部をえぐるような、悲惨なオペラばかりで、なるほどと思わせる。ケントリッジのモノクロームの殺伐たる舞台と強烈な演出を見てみたいものである。

そして「魔笛」みたいなハッピーエンドのオペラの演出をケントリッジは何故手掛けたのだろうと怪訝に思うことしきり。幸福な人生も不幸な人生もなく、人は、そうありたいという思いで、生きそして死んでいくということなのだろうか。たしかに今回ほど、いわゆる幸福感の少ない「魔笛」の幕切れは初めてである。これはケントリッジの術中にはまったのかもしれない。

それはともかく、やはり「魔笛」というオペラは、本当によくできたオペラである。第1幕と第2幕で、善と悪が入れ替わると解説されることが多いが、娘の幸せを祈る夜の女王も、パミーナを保護してその求愛者のタミーノに厳しい試練を課すザラストロも、どちらが善いとか悪いとかという尺度で測るのは間違いなのだろう。

歌手では、夜の女王役の安井陽子がワールドクラスの出来でハイトーンも見事に決まった。パミーナ(林正子)とパパゲーナ(九嶋香奈枝)は安定した歌唱。タミーノ(スティーヴ・ダヴィスリム)とパパゲーノ(アンドレ・シュエン)は平均点。ただし、ズングリムックリのタミーノと長身スリムなパパゲーノは、本来は体型が逆ではないのか。雲をつくような長身のザラストロ(サヴァ・ヴェミッチ)は適役だが、不安定な歌唱。もっとも録音を含め、まともなザラストロは聴いたことがほとんどないが。

オーケストラ(ローラント・べーア指揮東京フィル)はピリオド風アプローチで弦はヴィブラート少な目。またクラシカル・ティンパニーを堅めのマレットで叩いていた。不思議なのはレチタティーボをチェンバロでなくアップライトのピアノで弾いていたこと。違和感がつきまとった。大活躍は、サンダーシート(サンダーマシン)や水の音や剣の音を出していた打楽器奏者。また魔法の笛をタミーノが吹く場面では、モーツァルトのフルート四重奏第1番K.285の第2楽章アダージョが吹かれたり、サービス満点。

いろいろと考えさせられ、そして楽しんだ3時間だった。
なお10月13(土)14時、10月14日(日)14時に連続して残りの公演がある。

Photo(1):Marc Shoul
Photo(2~9):寺司正彦(撮影)/新国立劇場(提供)