編集とはなんぞや。暗黙知でパラサイト!?

授業で学生と雑誌をつくるが、デザインや記事執筆を学生が担当して、原稿整理の仕方などは学生に特に教えずに私がやり、記事の組み立て方や取材先への対応などを編集監修という立場でアドバイスする。しかし編集のスキルを体系的に教えるということはやったことがない。

いや、難しいのだ、編集を教えるのは。僕が出版社に入ったときは先輩を真似るのみだった。赤入れ(原稿整理)の記号の使い方くらいは教えてくれる。でも、入社して3~4か月くらいで記事をひとりで担当させられた。仕事しながら自分で覚えろというのが会社の基本的なスタンスだった。

そのうち、この人のこの仕事のやり方どうなの?というのもわかってくる。そういうときは反面教師にする。真似るのも大事だが、反面教師に気づくのもとても大切だ。オレはあそこまで神経質な仕事の仕方はしたくないというのと、でもあの人の仕事のさばき方はすごいなあ、というのが混じり合って、自分のスタイルをつくりあげていく。

ただし、反面教師を見ても弱みをすべて克服した完璧な人間になろうとは思わない。強みがちゃんとあれば弱みはもったままでもいい、ということを真似する。だからクセの強い編集者が多くなる。しぜん自分もそういう職業人になっていった。

ライターとしていろいろな出版社の仕事をすると、編集のスキルも業務範囲も出版社ごとに大きく違っていることに驚いた。しかも同じ会社でも編集という仕事への向き合い方もやり方がそれぞれに大きく違う。博覧強記で打ち合わせのときの雑談は楽しいけれど仕事は丸投げという編集者もいれば、お任せしますと打ち合わせは最短で済ませておいて、出来たテキストに細かく注文(というか文句)をつけてくる人もいる。「僕は人嫌いですから」と最初の打ち合わせで言ってきた編集者もいた。なら、仕事変えろよ!

そんなわけで、編集のスキルは個人によって違う暗黙知にとどまり共有化される機会は少ない。教科書があっても、あまり役に立たない。なぜなら、仕事の相手──つまり、執筆者、デザイナー、カメラマン、取材先の人、スタイリスト、校閲者、スポンサーとの一対一の関係が重要で、そこでの信頼の築き方は、相手によっても自分の仕事人としてのクセによっても全然違うからだ。編集長ならスタッフの編集者とも信頼関係を築く必要がある。

編集者は観察者である。ある記事をつくるとき、ライターもカメラマンもデザイナーもそれぞれのまなざしをもっている。もちろん編集者には最初にこういう記事にしたいという意図があり、それは編集者が世界を見つめるまなざしと言える。しかしこの編集者のまなざしは、記事として誌面に定着するときはライターもカメラマンもデザイナーらの協働者のまなざしに置き換えられる。

そして編集者はその仕事の全プロセスにおいて、他者が世界をどう見ているかということについて観察しつづける。観察の観察である。いっしょに取材をしながら(つまり、いっしょに何か観察しながら)、その取材自体を観察しているのが編集者の立ち位置なのだ。ライターにとっては最初にして最高の読者として鋭いコメントをくれる編集者ほど有り難いものはない。

編集者は群れない。それぞれ仕事の仕方が違って、そのスキルは共有化がむずかしいために、編集者どうしがつるむことが少ない。これと対照的なものが芸術の世界だ。芸術は、芸術に関わる人たちが群れることによって、芸術の意味と価値を維持・更新する自律的システムが成立している。芸術と芸術でないものを区別できるように、芸術か否かの境界を言説化する批評家や、芸術と認められたものをアーカイブ化する美術館や、芸術家を育成する芸術大学というネットワークが、芸術を再生産する自律的システムを構成している。

生物がその内部で細胞が細胞を生んで自分自身を維持・成長させるように、自らの構成要素を自らの構成要素が生みだすシステムを「オートポイエーシス」というが、芸術に関わる人と組織のネットワークが芸術を再生産しているという意味で、芸術はオートポイエーシス的社会だと考えることができる。

しかし編集は編集そのものを対象とした業界、学会、メディア、アーカイブはほぼない。あっても、影響力は限られている。編集者の名前から本を探せる図書館なんて聞いたことがない。しかし現代アートの言説化やアーカイブ化に編集者は欠かせない。ファッション雑誌は更新され続けるファッションシーンのために、マンガ雑誌はマンガ文化のために機能しており、文学の世界に編集者は欠かせない。政治や経済や科学などのジャーナリズムでも編集のスキルは不可欠だ。

編集自体はオートポイエーシス的システムをもたないが、他のオートポイエーシス的社会に棲みつくパラサイト的な存在で、そのスキルは酵素や触媒のように価値の生産を活性化させる。

うむ、こう考えると、編集を大学で教えたくなってきた。じゃあ、デザインとどこが違うの?というのを今ずっと考えてつづけている。デザインには芸術のようなオートポイエーシス社会が成り立つのか、いや編集のようなパラサイト的存在なのか。この話はまた今度ということで。

Photo:Lamai Prasitsuwan – Shutterstock