男女の過激なセックスシーンが目を見張るラブストーリー、当時イギリス領だった香港大学演劇部の舞台で流れるエルガー『エニグマ変奏曲ニムロッド』

登場する女スパイのモデルとなった人物は、父親を中国人、母親を日本人にもつ中華民国の特務・スパイだったテン・ピンルー(鄭蘋茹)、1918-1940。男のモデルは重慶政府の工作員のボスだったテイ・モクスン、1903-1947。

1938年。日本軍の中国侵攻から逃れ、香港に集団移住した女子学生ワン・チアチー(タン・ウェイ)は、香港大学の演劇部でレジスタンス派の学生クァン・ユイミン(ワン・リーホン)に出会う。仲間たちとともに抗日運動グループを組織したクァンは、日本の傀儡政府、ワン・ジンウェイ政権のスパイのトップ、イー(トニー・レオン)の暗殺計画を立てる。そのためワンは「マイ夫人」と名乗り、スパイとしてイーに接近することを志願した。

ワンは任務に徹するため、思い合うクァンとではなく、仲間内で唯一女性経験のあるリャン(クー・ユールン)と初めての性体験を済ませ、暗殺実行に備えた。しかしその矢先、イーが大臣に昇進して上海に行くという報せが。未遂に終わり落胆するクァンたち。さらに計画を知ったイーの手下であるツァオ(チェン・ガーロウ)を殺害してしまった衝撃から、仲間たちは散り散りになってしまった。

かわいらしいワン・チアチーが慣れないクラシックなチャイナドレスを着こなし、童顔に厚化粧を施し、処女だったものをベッドテクニックまで特訓して、特務機関のリーダーであるおそろしいイーの腕に飛び込んでいくさまは、政治的な理想の実現へ邁進する姿とはあまりにかけ離れた哀切さに満ちている。大学演劇部出身のワン・チアチーを「マイ夫人」という名の裕福な有閑マダムに仕立てあげてイーを誘惑させ、イーが警戒を解いたところを狙って殺害するというものだった。

時は流れ1942年、上海。本格的なレジスタンス組織に加わっていたクァンは、上海大学の学生になっていたワン・チアチーと再会。クァンはイー暗殺計画を復活させるべく彼女を説得し、新しいボスであるウー(トゥオ・ツォンファ)に紹介した。ワンは再びマイ夫人になりすまし、イーに近づく。たちまちイーとワンは男女の関係を結ぶが、次第に任務を超え、ふたりの恋愛感情は本物になって燃え上がっていった。

女スパイであるヒロイン、ワン・チウチーを演じたタン・ウェイという新人女優が、素晴らしくいい。当時18歳ぐらいか、何とオーディションで1万人のなかから主演に選ばれた。ワイングラスやコーヒーカップにべったりと口紅の跡を残して気づかないワン(この口紅の跡がエロい)、マダムたちの娯楽である麻雀が異常に弱い彼女、若さの美しさは際だっているものの、なで肩からむき出した太めの腕、小さめなおっぱい、脇毛や陰毛の黒々と伸びた肢体はゴージャスなボディとは言い難い。人を疑うことにかけてはプロ中のプロであるイーが、そんなに若づくりの野暮ったい「マイ夫人」を本気で信じるわけがない。

やがてイーはワンにダイヤモンドの指輪をプレゼントしようとするが、その時にウーの一味がイーを襲い、彼はワンの正体を初めて知る。まもなくウーたちは逮捕され、そのなかにはもちろんワンもいた。イーは感情を抑えながら、彼女たちの処刑を部下に命じるのだった。

それにしても、トニー・レオンはキスが本当に上手いと思う。キスが上手いので、見ているだけで触れ合った唇の感触を感じる。2000年のウォン・カーウァイ監督作品『花様年華』(原題In the Mood for Love)のマギー・チャンとのキスに次いで、ちょっと興奮する。

イーはワン・チアチーの美しさに落ちたというより、まったく逆で、彼女の野暮ったさ――べったりつけた口紅が、ベッドでキスをすればたちまち取れて幼い素顔に戻ってしまうような、虚飾と対極の魅力――にどうしようもなく惹かれてしまうのだ。ただ性欲を処理するだけなら、最初の暴力的なセックス一度で捨ててしまえば良かっただけのことだが、危険を冒して繰り返し彼女を誘い、体を貪るのは、なにもかもすべてが偽りの自分の人生(妻との関係も、特務機関という仕事も、軍事占領下である足もとの土さえも)の中でたったひとつだけ、彼女が「大地の匂い」を感じさせる存在だったからではないか。

でなければ、日本料理店のお座敷でワンが唄う中国の美しい歌を聴いて、イーが流す涙の説明がつかない。偽りの人生(日本の敗色は色濃く、イーの行く末も暗示される、イーのモデルのテイ・モクスンは終戦の2年後に、中国共産党政府に粛清される)、本当の身分をお互い明かさない偽りの恋人関係だが、たしかに惹かれあっていることを確認しあう。この、日本料理店での歌のシーンは、セックスでしか対話していなかったふたりが、使命と感情とのギリギリの相克の果て、一瞬だけふつうの恋人同士になれた美しいシーンである。

1938年の香港、演劇部の舞台のテーマ曲になっていたのが蓄音機から流れる、『威風堂々』が有名なイギリスの作曲家、サー・エドワード・ウィリアム・エルガーが1999年に作曲した管弦楽のための変奏曲『エニグマ変奏曲 ニムロッド』作品36-9である。実は『なぞの変奏曲』というミステリアスなタイトルが気になっていて憶えていた大好きな曲なので、劇中に流れたときに一瞬で分かった。『エニグマ変奏曲』は演奏時間がおよそ30分で、全部で14の変奏曲が続く。その第9変奏曲には『ニムロッド』という副題が付いている。香港がイギリス領だったのも、使われた一因だろう。

アンコールピースとして単独で演奏されることもあり、非常に有名。『ニムロッド』とは、楽譜出版社ノヴェロに勤めるドイツ生まれのオーガスタス・イェーガーにエルガーが付けた愛称。ふつう英語の『ニムロッド』は、旧約聖書に登場する狩の名手「ニムロデ」を指すが、この愛称は、ドイツ語の「イェーガー」が「狩人」や「狙撃手」に通ずることにちなんでいる。

エルガーは第9変奏において、イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしたらしい。また、この曲の旋律は2人が大好きだったというベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章の旋律が下敷きになっていると言われている。

しかし、エルガーは本国イギリスでの人気が高い。ザ・プロムス、あるいはBBCプロムスは、イギリス・ロンドンで毎年夏開催される、8週間におよぶ一連のクラシック音楽コンサート・シリーズ。ロイヤル・アルバート・ホールとハイド・パークを結ぶザ・プロムスの最後の一夜は、国歌『ゴッド・セーブ・ザ・クィーン』(原題God Save the Queen)、『炎のランナー』の項で説明したイギリス国教会聖歌『イェルサレム』(原題Jerusalem)、そしてエルガー作曲『威風堂々第1番』の変奏であるイギリスの愛国歌『希望と栄光の国』(原題 Land of Hope and Glory)が演奏されるのだ。

動画:Frank R. – YouTube