なぜデザインの領域はどんどん広がりつづけているのだろうか?

モノをデザインするとは色・形を決めるだけでない。人とモノとの関係性までデザインしないといけない。その関係性とはコトなのである。道具をデザインするとは、道具の使い方までデザインすることである。カフェのインテリアのデザインは居心地をデザインすることである。

つまりモノとコトは裏表の関係で、モノのデザインであろうと、人の体験をデザインするという視点が重要になってきた、ということなのだ。そして体験という視点に立つと、コミュニティ、サービス、ブランディング、イベント、ワークフロー、人生設計といった無形のものまでデザインの重要な対象になってきたということなのだ。

人生相談でよくこんな悩みを目にする。妻の金銭感覚が理解できない。スーパーでほうれん草が10円20円上がり下がりしただけで一喜一憂しているが、お気に入りのブランドの洋服には金に糸目をつけない。

これを金銭感覚の問題ととらえると、たしかに理解するのがむずかしい。ジキルとハイドのような吝嗇家と浪費家という別々の金銭感覚をもった二重人格者という話になってしまう。

しかしこれは「体験価値」の問題なのだ。スーパーでは1円たりとも無駄しないで買い物して料理をつくってそれを家族で食す体験と、お気に入りのブランドのショップで買い物して贅沢を着こなす体験は、自ら主体的に行動してその場その場に応じた望ましい結果を得て満足しているという意味では同じなのだ。つねに最適化された体験の獲得を欲しているのだから、人格として分裂しているわけではない。晩ごはんの買い物が節約の実践という体験に変わるとき、それはプライスレスな価値になるのだ。

体験価値は能動的に動いて達成感を得ることで高まっていく。体験価値ということばにはなんだかマーケティング用語によくある胡散臭さが漂うが、デザイナーはそれを無視することはもうできない。

デザイナー必読の名著『生きのびるためのデザイン』(訳:阿部公正 晶文社)でヴィクター・パパネックはこう語っている。「ある行為を、望ましい予知できる目標に向けて計画し、整えるということが、デザインのプロセスの本質である」。

パパネックは「人はだれでもデザイナーである」とも言う。「机の引き出しを掃除し整理することも、歯茎に埋もれた歯を抜くことも、アップルパイを焼くことも、草野球の組み合わせを決めることも、子どもを教育することも、すべてデザインである」(一部筆者改訳)と。

それを踏まえて考えると、デザインという行為自体が質の高い体験価値をもたらす営みといえる。コトのデザインとは人の能動性を引き出して、すべての人をデザイナーにする仕組みをつくりだすデザインなのである。社会的課題の解決やコミュニティづくりなど、デザインが領域がどんどん広がっているのはこうした理由があるからだ。

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