ユベール・ド・ジバンシィは二度死ぬ⁈

最初の「死」はLVMHにメゾンを買収されて、1995年7月のオートクチュールを最後にファッションの世界に別れを告げたときである。それはユベール・ド・ジバンシィにとっては実質的な「死」であった。それ以来、ジバンシーがこの世界に戻ってくることはほとんどなかった。

WWDジャパン1995年8月21日号

「ほとんど」と書いたのは、ときどきスキャンダル好きの記者が、「最近の『ジバンシィ』をどう思いますか?」とユベールのところに行って尋ねて、記事にしたときがあったからである。答えは決まっていた。ガリアーノだろうが、マックイーンだろうが、ジュリアン・マクドナルドだろうが、ティッシだろうが、「なっとらん」。

それはそうだろう。ファッションがクラシック&ロマンティックだった60年代~80年代に創作活動をしていたユベールと、ファッションが基本的にミニマル&リミックスなものになっていく90年代、ゼロ年代では、もうまるで時代が違っているのだから。

ある意味で、ユベールがLVMHのオファーに応じてメゾンを売却したのは正解だったかもしれない。売却しなかったら、かつて「モードの神童」と呼ばれ、エレガント・ファッションの帝王と呼ばれたユベールも零落して悲惨な晩年を送っていたかもしれない。事実、昔は天才で零落したデザイナーは枚挙に暇がないだろう。まあ晩年は悲惨でもいいから自分のブランド名で創作活動を続けたいというデザイナーがいても不思議ではないが。

「大金を支払ってそのブランドを買う代わりに、そのブランドについては一切口出しならぬ」なんていうシステムができたのは、ファッション業界にLVMHという怪物が1987年に現れて以来のことで、実はごくごく最近のことなのである。創設デザイナーのユベール・ド・ジバンシィが生きているのに、他のデザイナーによる「ジバンシィ」というブランドは粛々とデザインされ生産され販売されることを誰も不思議に思わなくなった。こんなことはファッション業界だけではないだろうか。「ジバンシィ」というブランドを見て聞いて、2メートルはあろうかというユベールの体躯や貴族的なその上品な顔立ちを誰も思い浮かべないなんて、カール・マルクスの労働価値論や貨幣論を持ち出さなくともかなりおかしいのだが、ここはそれを論ずる場所ではない。

さてユベール・ド・ジバンシィのファッションについては、オードリー・ヘップバーンが主役でユベールが衣装を担当した以下の映画を見ていただくのが手っ取り早い。

「麗しのサブリナ」(1954年)、「昼下がりの情事」(1957年)、「パリの恋人」(1957年)、「ティファニーで朝食を」(1961年)、「シャレード」(1963年)、「パリで一緒に」(1964年)、「おしゃれ泥棒」(1966年)、「華麗なる相続人」(1979年)。オードリーの魅力に助けられてはいるが、本当にうっとりするようなヨーロピアン・エレガンスの粋である。そして全く古びていない。

ところで、今回「3月10日眠っている間になくなった」と通信社を通じてコメントを発表したのが、パートナーだった元オートクチュール・デザイナーのフィリップ・ヴネだったというのには驚いた。初めて知った。軽いめまいが襲う。へえ、そうだったんですねこの2人。とんでもない大型カップルである(笑)。

ところでフィリップ・ヴネはどこにブランドの商標権を売っていたのかな。このクラスだと売れずにそのまんまということなんだろうか。1970年代には東急百貨店のプライベート・ブランドとしてライセンス契約し、ファイブフォックスが婦人服のサブライセンシーとして企画・生産していた(表記はヴネでなくてブネだった)。ジバンシィのほうは、大丸のプライベート・ブランドとして君臨していた。百貨店が差別化の武器としてパリのオートクチュール・デザイナーに目を付けるという、実に牧歌的な時代であったのだ。ともあれ、着々と古いものが消えていく。合掌。