ナンシーに行って分かるアール・ヌーヴォーのこと、そしてガレにインスピレーションを与えた高島北海

美術史に詳しかったり興味のある人なら、ナンシーと聞くと、あー、アール・ヌーヴォーの街だとすぐに思うかもしれない。確かにナンシーはアール・ヌーヴォーの発信地の一つとなった街だ。ここでエミール・ガレ(1846~1904)を中心とした「ナンシー派」というアーティストのグループを生んだのだから。そう、ナンシーでは思いっきりアール・ヌーヴォーに浸れ、アール・ヌーヴォーが素敵な美術様式だと言うことを自然に分かることができるのである。

ナンシーの中心にあるスタニスラス広場。豪華な雰囲気が漂う18世紀のロココ建築の傑作。/Photo:Ayako Goto

アール・ヌーヴォーならパリの街でもわりと身近にまだ存在していて、ギマールのデザインした地下鉄の入り口や街の建物の鉄とガラスでできた入り口の扉などに見ることができる。また蚤の市に行くと曲線のフォルムで現代のものには見られないしなやかな存在感のある家具や花瓶などにも出会うことができる。パリとナンシーはアール・ヌーヴォーの中心的役割を果たしたところだからだ。

ナンシー派美術館に行ってみよう。この美術館では、ナンシー派のリーダー的存在だったエミール・ガレの作品を中心に、日常の室内空間の中に展示品が配されている。というのもナンシー派のパトロンであったコルバン氏の私邸を改装したところなのだ。ここではガラスやセラミックの工芸品ばかりでなく、グランド・ピアノとか、ベッド、絵皿、電気スタンド、ステンドグラスなどが展示され、アール・ヌーヴォーがこんなにも多彩で生活の中で使われるものに及んでいたのかと驚きの念を覚えるのである。と同時に生活そのものを芸術の域に高めようとしたナンシー派の熱い情熱が感じられる。

18世紀のロココの後にやってきた、新しいデザイン、それがアール・ヌーヴォー様式だった。そしてこれは取りも直さず、当時のアール・ド・ヴィーヴルに他ならない。

アール・ヌーヴォーは19世紀末にヨーロッパで流行した新しい美術様式であると定義づけられている。「新しい芸術」のフランス語が「アール・ヌーヴォー」、ドイツでは「ユーゲント・シュテール(青春様式)」と呼ばれた。

ナンシーのあるロレーヌ地方は、もともとガラスやセラミックを作るための資材となる泥、鉛、水、そして火をおこすための木々が多く、18世紀から上質なセラミックやガラス細工で有名なところであった。アール・ヌーヴォーを開花させた芸術家、エミール・ガレの作品やナンシー派の作品を見ていると、それまで絵画や彫刻に代表された芸術が工芸の分野においてその距離がぐんと縮まったことが自然と納得できるのである。

アトリエで制作中のエミール・ガレ。/Photo:Ayako Goto

当時のナンシーにおいて日本人、高島北海(1850~1931)の存在を忘れてはならないだろう。エミール・ガレ40歳、高島北海36歳の時に二人は出会っている。高島は明治政府の林業地質技官としてフランス林業を学ぶためにナンシーに3年間滞在していたが、植物学に造詣が深く、絵を描くことも得意で、数多くのスケッチや水墨画を遺している。

高島北海が描いた数多くの植物や昆虫のスケッチをエミール・ガレは見て、そこからインスピレーションを得ていたということを、ナンシー派美術館のガレのガラス作品を見たときに筆者は理解したのであった。というのもガレのモティーフに度々登場する蜻蛉、女郎花など日本風の草花はガレ独特のあしらいだからである。以上のことを考えると、高島北海という人物はもっと評価されてもいいのではないだろうか?

時はまさしく「ジャポニスム」の風が吹き荒れていた。ゴッホ、モネ、マネらは浮世絵を収集し、研究して、自分の作品の中に取り入れた。ジヴェルニーのモネの庭には太鼓橋まで作った。

ガレは浮世絵ではなく自分風のジャポニスムを、自分の作風に取り入れたのだった。ナンシー派美術館にはあまりガレらしくはないのだが、扇を開いた形をした焼きもの(セラミック)で、図柄の配置やそこに表現されたモティーフはまさに日本的な九谷焼のような絵皿があって、興味を引く。

アール・ヌーヴォーとジャポニスムの出会いとか、アール・ヌーヴォー様式は当時のアール・ド・ヴィーヴルだったと、そんなことがわかるナンシー派美術館である。

Photo:Ayako Goto