大編集者光文社の並河良逝く

並河良氏遺影/Photo:Akira Miura

砂漠のような東京でも…
週刊ファッション日記#52

光文社元社長の並河良(なみかわりょう)さんが食道癌で6月21日に亡くなった。享年80。桐ケ谷斎場のお通夜(6月23日)に参列した。すでに引退生活(2010年に相談役退任)に入っていたし、齢80を超えた逝去であるから、斎場に悲壮な空気はなかったが、ときおりすすり泣きが聞こえた。参列していた編集者やスタイリストや同社役員に話を聞くと経営者としてよりも、大編集者としての並河さんを評価する声が圧倒的だった。

並河さんの略歴を振り返ると:

1951年3月東京教育大学教育学部卒業
同年4月光文社入社 「女性自身」編集部配属
1973年「別冊女性自身」編集長
1975年「JJ」編集長
1984年「CLASSY」編集長
1995年「VERY」編集長
1999年「BRIO」編集長
2000年代表取締役社長
2008年取締役会長
2009年相談役
2010年相談役退任

こうしてみると、5つの雑誌の創刊編集長を歴任している。別冊女性自身は、「JJ」の前身(「JJ」はJOSEI JISHINの略)だから、4つの雑誌と言うべきだろう。しかし4つも雑誌の創刊編集長を務めた人物なんていうのは大手出版社では今後まず現れないであろう。そのうち、「BRIO」を除く三誌はいずれも一世を風靡した雑誌であり、今なお雑誌の世界においてゆるぎない存在感を主張している。ファッションを軸にしたライフスタイル誌の日本における先駆者と言っていいかもしれない。特に「VERY」が巻き起こした現在のママ雑誌旋風はよく知られたところだ。例えば、マガジンハウスには「anan」、「Olive」、「GINZA」の編集長を歴任し、退社した後も現在招かれて「クウネル」編集長を務める淀川美代子さんという名編集者がいるが、不思議なことに彼女は創刊編集長になったことはないのだ。並河氏が名編集者を通り越して大編集者と言われる所以である。これだけの実績を残した人だから、社長に就任したのは当然だろう。社長時代は、カッパ・ブックスの新刊発行を停止し(2005年)、この代わりに光文社新書を2001年にスタートするなど、経営改革を進めたが、これについては賛否両論があったという。光文社の雑誌には、いまだに並河イズムというのが生きていて、「広告が出ているか出ていないかは関係ない。読者が望むものを誌面に載せろ」という一種のジャーナリズムが貫かれていると聞く。並河社長時代には広告部は苦労したのではないだろうか。

社長時代の並河さんに、一度だけロング・インタビューしたことがある(2008年。掲載紙WWDジャパン同年5月26日号)。実に面白いオヤジだった。この人、本当に出版社の社長なのかという感じのベランメイ調で歯に衣を着せない話しぶり。実に爽快無比であった。当時、「レオン」(主婦の友社)を筆頭に「ちょい悪オヤジ」旋風が吹き荒れて、同じコンセプトの男性誌が溢れかえっていたが、「ありゃ、君ね、落語の『野ざらし』だよ」と真面目な顔で評していた。

「野ざらし」という落語は、釣り好きの浪人にすごい美人が深夜訪ねてきたのを隣の八五郎が目撃し、その理由を浪人に尋ねると、「釣りに出かけてシャレコウベを釣ってしまい、これにフクベの酒をかけて供養したら、人間の姿に戻って礼に来た」という答え。八五郎は俺も俺もと浪人から釣り道具を借りて釣り場に行って大騒ぎを巻き起こすという噺。

当たった雑誌があると、我も我もと類似誌を出す出版業界を痛烈に皮肉った例えであるが、落語好きの小生は大笑いした記憶がある。光文社の男性誌「BRIO」がその範疇に入るのかどうかは聞き逃した。

また、並河さんはクラシック音楽が趣味らしいが、「昔は、チェロのカザルスみたいに、本当の音楽家だけが録音するのを許されたのに、今は簡単になんでも録音しすぎだよ。出版界も同じ。どうでもいい出版物が多すぎる」。私もクラシック音楽が好きで、カザルスが弾くバッハの無伴奏チェロ組曲は愛聴盤のひとつだが、並河さんの意見には同感だ。

こういう人は、仕事ではなく、自宅を訪ねて、落語談義、クラシック音楽談義をしてみたものだ、とその時思った。しかしその機会もなく、並河さんは、唯我独尊、黄泉の国へ旅立ってしまった。合掌。

Photo:Akira Miura