『フィガロの結婚』の主人公はフィガロではない⁈段ボールと傾斜舞台が描く封建制崩壊のオペラ

スザンナ(中村恵理)、フィガロ(アダム・パルカ)、伯爵夫人(アガ・ミコライ)/撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

週刊ファッション日記 番外編#20

大学に入りたてのころ、モーツァルトの4大オペラのレコード(CDではない)を聞きまくっていた時期があった。その挙句、小林秀雄もどきの「フィガロの欠落」なる珍妙な評論を書いた。印刷物になったはずだが、行方不明である。要するに、近代人は自我が目覚めると同時に、フィガロのような生きるための単純な「知恵」を失って、自壊している、みたいな論旨だった。しかしその評論のほうが自壊していたような(笑)。

スザンナ、伯爵夫人、フィガロ、伯爵(ピエトロ・スパニョーリ)/撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

それはさておき今回新国立劇場で『フィガロの結婚』(4月23日)を観た。アンドレアス・ホモキのこの演出を私は、「段ボールフィガロ」と呼んでいるが、段ボールと傾斜舞台で描かれたモノクロームの世界は、崩壊寸前の封建社会の殺伐とした風景を見事に抽象化している。

加えてこのオペラの主人公は、フィガロではなく、その許嫁のスザンナであることを再認識させてくれる演出である。「男はホントにダメですね。私たち女がしっかりしないと」というフェミニズム・オペラであることを強調しているように思われる。機知と度胸で何でも屋として伯爵家に入ったフィガロも、伯爵夫人付きの侍女スザンナから見れば甘ちゃんなのである。そういったストーリーであれば、今回スザンナ役の中村恵理はなかなかであった。賢くてちょっと美人の侍女というのがスザンナのコンセプトだが中村はこの役にぴったり。外国人歌手に混じっても違和感がなかった。すべてに余裕があって、動き回っても煩くない。さすがに疲れたのか第4幕のアリアがちょっと雑だったのはご愛嬌か。伯爵、伯爵夫人(ちょっとヴィヴラートが多めだがむしろ快感)、ケルビーノ(快速で歌った2つのアリアにブラヴォー!)、バルバリーナみな水準以上で楽しんだ。フィガロはバス・バリトンというか、バス。演技も世慣れた何でも屋というより、直情径行な男。伯爵(バリトン)との差別化でこういうキャスティングもありかもしれないし、なお一層スザンナの機知が際立った。トリンクス指揮の東京フィルはこのところの好調を持続していたが、特筆されるのは存在感を主張したチェンバロ(小埜寺美樹)。あれ、新国立のチェンバロってこんなに雄弁だったかな。

伯爵夫人、スザンナ、女装したケルビーノ(ヤナ・クルコヴァ)/撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

しかし、『フィガロの結婚』は人気演目なようでほぼ満員。まわりにはいつもより居眠りが目に付く。人が殺されたり死んだりするわけではないし、好色な夫や殿様に悩まされる妻や家来のどうでもいい一日を描いているだけだから、それが正しい鑑賞法かもしれない。正直言って、私はモーツァルトのオペラは苦手である。基本的に長過ぎる。特に『フィガロの結婚』。ホモキのかなり刺激的な演出で高水準の歌手が揃った今回のような上演でも、どんどん引き込まれるということはない。2003年に初めて上演されたホモキの「段ボールフィガロ」も、今回で6回目。そろそろ新演出が見たいところである。

なお4月29日(土曜日・祝日)14時に残りの公演がある。

フィナーレ:衣装は全員寝間着風、床は傾き、壁は壊れ、まさに崩壊した世界で人間賛歌が歌われる/撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

ちなみに馬鹿バカしいという評価もあろうが、2015年の野田秀樹・演出で井上道義・指揮&総監督の『フィガロの結婚/庭師はみた』が最近の私のベストである。今回の新国立劇場の格調高い上演に比べれば、足元にも及ばないドタバタだが、全く退屈しなかった。

それと、新国立劇場へのリクエスト。周知のようにボーマルシェのフィガロ三部作は『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』『罪ある母』からなる。前2作はロッシーニ、モーツァルトの傑作が名演出で繰り返し上演されているが、ダリウス・ミヨー作曲の『罪ある母』(1966年初演)を何とか日本初演してもらえないものか。ケルビーノが伯爵夫人と姦通して産ませた子供をめぐる話だが、ミヨーのオペラならきっと聞きづらいということはないと思う。

それにしても、フィガロ三部作の原作者のボーマルシェ(1732-1799)というのはとんでもない男である。いろいろな職業(時計師、音楽家など)で名を成しているが、その本質は政商。封建社会の崩壊の戯曲を描いた男が政商とは、18世紀後半とは本当に面白い時代だったのだ。

撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場