クリュッグの歴史とフランス史は重なっている!?

1848年はメゾン クリュッグにとって重要な一年だった。ヨーゼフ・クリュッグがシャンパーニュ哲学とも呼べる形而上学思索をノートに書き留め、今後のメゾンの指針としたからである。これにより、個々の部分では変動があろうとも、基本は変わらないという不易流行の「クリュッグ哲学」が出来上がったのである。

それ以来100から150種類のベースワインから5000回にわたりテイスティングするアッサンブラージュを重ね続け、160年以上メゾン クリュッグは受け継がれている。アッサンブラージュはメゾンのメゾンたる所以であり、正に職人技に等しい。毎回様々なワインを直感を信じて混ぜ合わせる。当然いつも同じレシピでなく、ゼロから作り出すのだ。経験と第六感のマリアージュがメゾンを支えてきた。

ヨーゼフ・クリュッグが書き残したノート/Photo:MHD モエ ヘネシー ディアジオ株式会社

さて、フランスにとって1848年とはどういう年であったのか?2月革命の年、 第二共和政が誕生した年である。前年まで安定を見たかに思えたルイ=フィリップの七月王政はこの年が明けるや否や、不安な様相を示しはじめる。

いったい何が革命的な状況をもたらしたのか?それはフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー首相率いる内閣が新聞への弾圧を強めたことによる。 つまり、 新聞の攻撃的論調に苛立った内閣が罰金や発行停止の処分を繰り返したため、 共和左派のみならず、 中道左派のオディロン・バローらも政府批判に転じ、 反対運動が一気に拡大の様相を示しはじめたのだ。

具体的にいうと、 それは「改革宴会」という不思議なかたちを取ってあらわれた。

広場や公道での抗議活動を禁止された反対派は、それならばこちらにも考えがあるとばかりに、 大きなレストランやホールを借り切って宴会を開くことで弾圧に抵抗しようと試みたのである。

反対派は「政治と料理は良きカップルを成す」を合言葉に改革宴会を繰り返し、次第に多くの賛同者を集めていった。あるいは、この「改革宴会」でクリュッグのシャンパーニュが参加者の気分を盛り上げたということもあったのかもしれない。

いずれにしろ、年明けとともに「改革宴会」はますます盛んになり、それまでは政治に無関心だった民衆までが同調しはじめた。

決定的だったのは2月22日に予定されていた共和左派と中道左派の「改革宴会」がギゾーによって禁止されたことである。というのも、この決定を知った民衆が革命派にアジられてついにデモ行進を始めたからである。

ギゾーは国民衛兵に鎮圧を命じたが、一部の部隊は命令を拒否、勢いづいた革命派はバリケード作りを開始した。翌 23日、 恐怖したルイ=フィリップはギゾーを更迭してモレに組閣を命じたが時すでに遅かった。 グラン・ブールヴァールで軍隊によって民衆が虐殺されたことに怒った民衆がテュイルリ宮を占拠し、ルイ=フィリップはベルギーに亡命せざるをえなくなったのである。

パリ市庁舎(オテル・ド・ヴィル)/Photo:Skreidzeleu / Shutterstock

これを受けて、事態収拾に乗り出したのが詩人・政治家のラ・マルティーヌや共和左派のルドリュ=ロラン、 社会主義者ルイ・ブランらだった。彼らはオテル・ド・ヴィル(市庁舎)前広場に集まった民衆を前にして臨時政府の樹立を宣言。同時に、シンボルとなる国旗を赤旗ではなく三色旗と定めた。かくて憲法制定議会の選挙が行われ、4月には第二共和政がスタートしたのである。

クリュッグでも“色”の革命が起こっている。1983年にピノ・ノワール種のブドウからインスピレーションを得た、絹のような舌触り、野生の果実、スパイスの味わいを持ち赤ワインのように楽しむことができるロゼ・シャンパーニュが生まれている。

この意味で、 1848年に社是となる基本方針を定めたクリュッグは、 紆余曲折はありながらも今日まで綿々とつづくフランス共和国とぼほ同じ歩みを続けているということになる。 クリュッグの歴史はフランス共和国のそれと見事に重なっているのである。

クリュッグ グランド・キュヴェ/Photo:Naoto Hayasaka

 

 

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Vol.1<ナポレオンに思いを馳せつつ、クリュッグを嗜むとは!?>
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