ナポレオンに思いを馳せつつ、クリュッグを嗜むとは!?

18世紀の最後の年である1800年、 クリュッグの創設者ヨハン・ヨーゼフ・クリュッグ(フランス語読みならジョアン・ジョゼフ・クリュッグ)はマイヤンス(ドイツ語読みはマインツ)に生まれた。ナポレオンの名を有名にしたカンポ・フォルミオの戦いにより、旧神聖ローマ帝国領だったライン川沿岸の都市マインツはマイヤンスと呼ばれるようになっていたのである。したがって、クリュッグもフランス語の教育を受け、フランス的なメンタリティーのもとに成長することになる。

ヨハン・ヨーゼフ・クリュッグ/Photo:MHD モエ ヘネシー ディアジオ株式会社
では、この1800年という年はフランスおよびヨーロッパでどのような意味を持つ一年だったのだろうか?

政治的に見れば、前年にブリュメール十八日のクーデターで全権を掌握し、執政政府を打ち立てた第一執政ナポレオン・ボナパルトの支配が強まった年と見ることができる。ナポレオンは新聞を規制し、県知事を地方に派遣して強固な中央集権体制を確立した。

その結果、景気は回復したが、ナポレオンは大革命時のインフレーションが再発することを危惧してフランス国立銀行を創立、通貨の発行を一元化した。これによりフランは安定し、フランス経済は往年の勢いを取り戻したのである。

6月14日、ナポレオンがイタリアのマレンゴでオーストリア軍に大勝したというニュースが伝わると、 パリ中の民衆が熱狂し、 町の通りという通りで人々は踊り明かした。当時、フランス経済復興を反映してか、ただ踊り狂うというダンシング・ミュージカル「ダンス・マニア」がオペラ座でおおいに受けていた。

パリのオペラ座・ガルニエ宮/Photo:kentoh / Shutterstock

ところで、後からわかったことだが、マレンゴの戦いでナポレオンはおのれの判断ミスであやうく大敗しそうになっていたのだ。というのも、ナポレオンはオーストリア軍の主力はトリノに止まっていると誤認し、ドゼ将軍に別動隊を命じたため、マレンゴでは31000のオーストリア軍に対して23000の兵力で戦わざるを得なくなっていたからである。 しかし、 夕刻にドゼ将軍の別動隊が到着したため形勢は逆転し、 ケレルマン将軍の騎兵隊の活躍により、 オーストリア軍を撃破することができたのである。

こうした大激戦のためだろうか、 食事の時間になってもナポレオンのいる司令部には食料が届かなかった。ナポレオンの料理長はそこで一計を案じ、鶏のトマト煮にエビと卵を添えた間に合わせ料理を出した。 意外やこれが粗食好みのナポレオンの気に入り、 以後、 ナポレオンは戦いのたびにゲンを担いで、 「鶏のマレンゴ風」を注文したといわれる。

「鶏のマレンゴ風」は今日でも、ビストロの定番である。食前酒としてクリュッグで喉を潤したあと、あえて「鶏のマレンゴ風」を注文してみるのも、この1800年という年を画する二つの出来事を想起するという点で、悪くはないかもしれない。次にパリに行ったときに試してみることにしよう。

クリュッグ グランド・キュヴェ/Photo:Naoto Hayasaka

 

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